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伊達輝宗 : ミニ英和和英辞書
伊達輝宗[だてあきらむね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

伊達 : [だて]
  1. (adj-na,n) dandyism 2. vainglorious 3. showy 4. gallantry 
: [たち, たっし]
  1. (n-suf) plural suffix 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 

伊達輝宗 : ウィキペディア日本語版
伊達輝宗[だてあきらむね]

伊達 輝宗(だて てりむね〔当時、息子の伊達政宗や義姫の侍女たちなどが「てり宗公」と呼んでいる。『伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書』(新人物往来社、1997),p.100〕、だて てるむね)は、戦国時代武将戦国大名伊達氏第16代当主。
== 生涯 ==
天文13年(1544年)9月、伊達晴宗の次男として生まれる。
長兄の親隆は母方の祖父である岩城重隆の養子となっていたため、次男の輝宗が世子となる。天文24年(1555年)3月19日、元服し、将軍・足利義輝偏諱を受けて輝宗と名乗る。永禄7年(1564年)、最上義守の娘(最上義光の妹)・義姫を娶り、同年末頃に父・晴宗より家督を譲り受けた。
しかしこの時点では、家中の実権を、隠居の晴宗と天文の乱に際して家中最大の実力者となった重臣中野宗時牧野久仲父子に握られていた。そのため、家中の統制を図った輝宗は、永禄13年(1570年)4月、中野宗時に謀反の意志有りとして久仲の居城・小松城を攻め落とし、中野父子を追放する。この際に輝宗に非協力的であったとして、小梁川盛宗白石宗利宮内宗忠らが処罰されている。同年、義姫の実家・最上家でも、義守・義光父子の間で抗争が始まると、輝宗は義守に与して義光を攻めたが、義姫が輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた。
家中の実権を掌握した輝宗は、鬼庭良直を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった遠藤基信の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。この両名を中軸とする輝宗政権は、晴宗の方針を引き継いで蘆名氏との同盟関係を保つ一方で、南奥羽諸侯間の紛争を調停した。また幅広い外交活動を展開し、天正3年(1575年)7月には中央の実力者織田信長に鷹を贈ったのをはじめとして、遠藤基信に命じて北条氏政柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した。
天正6年(1578年)に上杉謙信が没し御館の乱が勃発すると、輝宗は対相馬戦を叔父・亘理元宗に一任し、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に景虎方として参戦したが、乱は景勝方の勝利に終わり、蘆名・伊達軍は新発田長敦重家兄弟の奮闘に阻まれて得るところが無かった。しかし、御館の乱における論功行賞において新発田勢の軍功が蔑ろにされ、さらには仲裁を図った安田顕元が自害するに及んで、天正9年(1581年)に重家が景勝に叛旗を翻すと、輝宗は盛氏の後継・蘆名盛隆と共に重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後への介入を続けた。このため新発田の乱は泥沼化し、7年にもわたる長期戦となった。
一方、対相馬戦においては、相馬盛胤義胤父子の戦上手さに苦しみ、戦局がなかなか好転しなかったが、天正7年(1579年)には田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて相馬方の切り崩しを図り、天正10年(1582年)には小斎城主・佐藤為信の調略に成功すると、天正11年(1583年)5月17日、ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝・丸森城の奪還に成功し、翌天正12年(1584年)1月11日には金山城をも攻略した〔寛文7年(1667年)に相馬中村藩士・中津幸政が編纂した『奥相茶話記』では、天正11年(1583年)2月に田村清顕の仲介により丸森・金山両城の返還が決まったとしている。〕。伊具郡全域の回復が成ったことで輝宗は停戦を決め、同年5月に祖父・稙宗隠居領のうち伊具郡を伊達領、宇多郡を相馬領とすることで和平が成立した。ここに至って伊達家は稙宗の頃の勢力圏11郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。このことは、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いで盟友・柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて滅亡したことを受け、同年6月5日付の甥・岩城常隆に宛てた書状の中で、秀吉の勢力が東国に及ぶような事態に至れば奥羽の諸大名を糾合してこれに対抗する意思を示している〔『性山公治家記録』同日条所載。『大日本史料』もこれを同日付の書状としている。一方、小林清治は『米沢市史』資料篇1(1985)でこの書状の日付を天正10年(1582年)に書換えているが、明確な根拠を示していない。〕 ことからもうかがえる。
天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後わずか1ヶ月で当主となった盛隆の子・亀王丸の後見となる。輝宗はこれを期に政宗に伊達家の家督を譲ることを決め、修築した舘山城に移った。以後自らは越後介入に専念するつもりであったという。ところが、家督を継いだ政宗は上杉景勝と講和して伊達・蘆名・最上による共同での越後介入策を放棄したため、蘆名家中において伊達家に対する不信感を増大させるに至った。
翌天正13年(1585年)春に、岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令した。田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した石川昭光・岩城常隆・伊達成実らの攻撃を受けており、輝宗の裁許に従ったまでであるとして定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年4月に大内氏に対する討伐命令を下した。定綱は蘆名盛隆未亡人(輝宗妹・彦姫。亀王丸の母)にとりなしを求めたものの、政宗は5月に突如として蘆名領に侵攻し(関柴合戦)、これに失敗すると定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった。
同年10月、義継が政宗に降伏を申し入れると、政宗は当初義継に対し苛烈な態度で臨み、所領を大幅に削減すると宣告したが、調停にあたった輝宗が政宗の決定に対して難色を示したので(義継が輝宗に処分の軽減を依頼したともいわれる)、政宗は処分の軽減を決定したという。同月8日、義継は調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れた際に(一説によれば館内で刀を研ぐ兵士を見て義継が態度を変えたともいわれる)、輝宗を拉致して二本松城に戻ろうとした。政宗が義継に追いついたのは阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりと伝わる(付近に畠山義継供養塔がある)。この時に政宗の命令による銃撃で義継も輝宗も死亡したとも、最期を悟った義継が輝宗を殺害したあと割腹したともいわれるが定かではない(粟之巣の変事)。享年42。なおこの事件については、輝宗の存在を疎ましく思った政宗が謀殺した等の異説〔高柳光寿『青史端紅』165〜172頁(朝日新聞社、1962)〕 もある。輝宗の亡骸は寿徳寺(福島県福島市。現・慈徳寺)で荼毘に付され、資福寺山形県高畠町)に埋葬された。輝宗の温厚な性格は家臣の人望を集めており、遠藤基信らが殉死した。
輝宗の死は、伊達家と近隣勢力との関係を一挙に悪化させた。殊に佐竹義重による本格的な奥州介入を招き、石川昭光をはじめとする同盟勢力の離反、同年11月の人取橋の戦いでの苦戦、天正15年(1587年)3月の亀王丸没後の蘆名家継承問題における敗北などの様々な軍事的・外交的不利をもたらし、天正16年(1588年)の郡山合戦に勝利するまで、政宗は窮地の連続に追い込まれることとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「伊達輝宗」の詳細全文を読む




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