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ヨーハン・ハインリヒ・フュースリ : ミニ英和和英辞書
ヨーハン・ハインリヒ・フュースリ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨーハン・ハインリヒ・フュースリ ( リダイレクト:ヨハン・ハインリヒ・フュースリー ) : ウィキペディア日本語版
ヨハン・ハインリヒ・フュースリー[ちょうおん]

ヨハン・ハインリヒ・フュースリーまたはヘンリー・フュースリーJohann Heinrich Füssli;, 英語:Henry Fuseli, 1741年2月7日 - 1825年4月16日)は、イギリスで活躍したドイツスイス人の画家フュースリフューズリフュッスリという表記もある。
==生涯==
フュースリーはスイスチューリッヒに、18人の子供の第2子として生まれた。父親のヨハン・カスパー・フュースリーは肖像画や風景画を描いていた画家で、『ヘルヴェティアの画家の生涯』(ヘルヴェティアとはスイス西部あたりを指す)という本の著者でもあった。息子を聖職者にしたかった父親の意向で、フュースリーはチューリッヒのカロリン・カレッジに入学、最高水準の教育を受けた。学友の一人にヨハン・カスパー・ラヴァーターがいて、二人は親友になった。
1761年、不正な行政官を非難したラヴァーターを支援したかどで(相手の家が実力者で反撃にあったのだ)、フュースリーは国外追放令を受け、スイスを離れた。最初、ドイツに行ったが、1765年、イギリスに渡った。いろいろな書き物をして生計を立てていたが、画家のジョシュア・レノルズ卿に自作のスケッチを見せたところ、知己を得、レノルズ卿のアドバイスで美術に専念することにした。1770年、絵の「巡礼」をしにイタリアに行き、1778年まで滞在した。FüssliからFuseliに改名したのはこの頃で、その方がイタリアっぽい響きだったからだった。
1779年のはじめ、チューリッヒに立ち寄ってから、イギリスに戻ったところ、ボイデル参事会員からの仕事がフュースリーを待っていた。ボイデルは後にボイデル・シェイクスピア画廊を作った人物である。フュースリーはボイデルのために多くの絵を描いた。その一方で、親友ラヴァーターの人相学の本の英語版を出版した。また、ホメロスの翻訳本の準備をしていたウィリアム・クーパーには貴重な助力をした。1788年ロイヤル・アカデミーの準会員になった直後、絵のモデルをしていたソフィア・ローリンズと結婚。ある時、以前肖像画を描いたことのあったフェミニズムの先駆者メアリ・ウルストンクラフト(フュースリーは彼女の肖像画を描いた)が、フュースリーをパリ旅行に誘ったが、ソフィアが猛反対し、それ以後フューズリー家はウルトスンクラフトに門を閉ざしたという〔
〕。結婚の2年後、フュースリーはアカデミーの準会員から会員に昇進した。
1799年、フュースリーはジョン・ミルトンの本から着想した連作絵画の展覧会を開いた。ボイデル・シェイクスピア画廊と似たミルトン画廊を作ろうという意図だった。完成までインターバルを挟んで9年を費やしたミルトンの絵は全部で47枚あり、その多くが大作だったのだ。展覧会は翌1800年まで続いたが、商業的には失敗だった。1799年、フュースリーはアカデミーの美術教授に昇進した。4年後には芸術館長に選ばれ、いったん教授職を辞したが、1810年に復職し、死ぬまで両方の役職をこなした。1805年、ピルキントンの『Lives of the Painters(画家たちの人生)』を出版するが、それが彼の名声を高めることにはならなかった。
終生健康を害したことのないフュースリーだったが、プトニー・ヒルで死去。84歳だった。セント・ポール大聖堂に埋葬。死んだ時は比較的裕福だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヨハン・ハインリヒ・フュースリー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Henry Fuseli 」があります。




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