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ヨーゼフ・ヴィエニャフスキ : ミニ英和和英辞書
ヨーゼフ・ヴィエニャフスキ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヨーゼフ・ヴィエニャフスキ ( リダイレクト:ユゼフ・ヴィエニャフスキ ) : ウィキペディア日本語版
ユゼフ・ヴィエニャフスキ[ちょうおん]

ユゼフ・ヴィエニャフスキ(Józef Wieniawski, 1837年5月23日 - 1912年11月11日)はポーランドピアニスト作曲家指揮者、教育者。ポーランドの著名なヴァイオリニスト、ヘンリク・ヴィエニャフスキの弟である。名はポーランド語名Józef(ユゼフ)のほか、フランス語名Joseph(ジョセフピティナ・ピアノ曲事典 〕)、ドイツ語名Josef(ヨーゼフ)の表記も見られる。
現在では忘れられているが、かつてはヨーロッパ最高の音楽家の一人と評価されていた。最晩年になって若いジャーナリストに、いつまで音楽を続けるのかと尋ねられると、「若いうちはずっとさ!」と答えたという〔 〕。
== 生涯 ==
ユゼフ・ヴィエニャフスキは1847年から1850年までパリ音楽院で学び、ピエール・ジメルマンアントワーヌ・マルモンテルに師事した〔Randel, Don Michael (1996), The Harvard Biographical Dictionary of Music , p. 984, Belknap Press of Harvard University Press, ISBN 0674372999〕。ツァーリ(ロシア皇帝、当時はポーランド王を兼任していた)より奨学金を得て、1855年にヴァイマルフランツ・リストに、1856年から1858年までベルリンアドルフ・ベルンハルト・マルクス音楽理論を師事した〔。
1851年から1853年まで兄ヘンリクと演奏活動をしたのち、ピアノのヴィルトゥオーソとして独立して活動することを選んだ。ヨーロッパ演奏旅行では、ユゼフのピアノ協奏曲ト短調などの兄弟の自作だけではなく、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンフランツ・シューベルトフェリックス・メンデルスゾーン、フランツ・リスト、ロベルト・シューマンカール・マリア・フォン・ウェーバーの作品も演奏された。リストによると、ショパンの練習曲の全曲を初めて公開演奏したのはユゼフ・ヴィエニャフスキであり、パリロンドンコペンハーゲンストックホルムブリュッセルライプツィヒアムステルダムにてショパン・リサイタルを開催した〔。
パリに帰還するとジョアキーノ・ロッシーニシャルル・グノーエクトル・ベルリオーズリヒャルト・ワーグナーと友好関係を築き、宮廷に出入りしてナポレオン3世の愛好する音楽家となった〔。その後モスクワに移り、1866年に設立したモスクワ音楽院のピアノ科に招かれ、1878年にはブリュッセル王立音楽院でピアノの教授となった〔。1902年から再びブリュッセルで過ごした〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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