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チュルブスコの戦い : ミニ英和和英辞書
チュルブスコの戦い[ちゅるぶすこのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

チュルブスコの戦い : ウィキペディア日本語版
チュルブスコの戦い[ちゅるぶすこのたたかい]

チュルブスコの戦い(チュルブスコのたたかい、英:Battle of Churubusco)は米墨戦争コントレラスの戦い直後、1847年8月20日に起こった戦闘である。チュルブスコにおけるメキシコ軍の敗北で、アメリカ軍はメキシコシティまでわずか5マイル (8 km) を残すのみとなった。
== 背景 ==
メキシコ軍はコントレラスとサン・アントニオでの敗北に続いてチュルブスコの村落まで後退した。サン・アントニオからの後退の間、メキシコ守備軍(第1防御線あるいは時として「中央軍」、N・ブラボ将軍指揮の約2,000名。内訳は700名の「イダルゴ」隊、500名の「ビクトリア」国防大隊およびA・ゼレセロ大佐とJ・G・ペリディゴン・ガレイ大佐の指揮する800名)は、アメリカ軍ウィリアム・J・ワース将軍師団のクラーク旅団に側面を衝かれた。アメリカ軍は将軍代行のペリディゴン・ガレイを含み約500名を捕虜に取り、5門の大砲を捕獲した。アメリカ軍はその後の攻撃のためにコントレラスから来た部隊との統合を始めた。
メキシコ軍はサンタ・マリア・デ・チュルブスコのフランシスコ会修道院で抵抗を試みた。この修道院は周りの地形に比べて高さの利点は無かったが、小さな川があって橋が1つ架かっており、アメリカ軍はまずこれを破る必要があった。修道院の石壁に加えて、攻撃に先立ってメキシコ軍が掘り始めていた不完全な一連の塹壕も防御に一役買っていた〔Ramsey (1850), pp. 292〕。防御部隊は「インデペンデンシア」と「ブラボス」の大隊(その90%は戦闘経験が無かった)と聖パトリック大隊からの1,300名だった。援軍として送られたトラパとラゴス大隊の部隊も幾らかはいた。この部隊には大砲が7門あった。
大砲3門は右手に、2門は中央に、残り2門は左手に据えられた。「インデペンデンシア」大隊は上部壁、橋に繋がる右側面、防御の無い南と北の側面および戦場に面した2つの日干し煉瓦づくり小屋を割り当てられた。「ブラボス」大隊と聖パトリック大隊は左手、バリケードの後ろに配置された。チュルブスコ川に沿った支援として、ペレス旅団2,500名(第11戦列、第1、第3および第4軽歩兵連隊)がいた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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