翻訳と辞書
Words near each other
・ カレル・ドールマン (空母)
・ カレル・ドールマン (統合支援艦)
・ カレル・ドールマン (護衛空母)
・ カレル・ドールマン級フリゲート
・ カレル・ノバチェク
・ カレル・ハヴリーチェク
・ カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキー
・ カレル・ヒネク・マーハ
・ カレル・ピタック
・ カレル・ピターク
カレル・ファブリツィウス
・ カレル・ファブリティウス
・ カレル・ファン・ウォルフレン
・ カレル・ファン・エフモント
・ カレル・ファン・デ・ウステイン
・ カレル・ファン・デ・ウースタイネ
・ カレル・フイヴァールツ
・ カレル・フイヴェールツ
・ カレル・フサ
・ カレル・フーサ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

カレル・ファブリツィウス ( リダイレクト:カレル・ファブリティウス ) : ウィキペディア日本語版
カレル・ファブリティウス

カレル・ファブリティウス(Carel Fabritius、ミデンベームステルで1622年2月27日に洗礼、1654年10月12日デルフトで没)は17世紀前半のオランダ画家で、レンブラント・ファン・レインのもっとも才能ある弟子のひとり。

== 生涯 ==
ファブリティウスは開発されて間もないベームスター干拓地の町ミデンベームステル(Middenbeemster)で学校教師の息子として生まれた。彼は最初は大工(ラテン語のファーベルからファブリティウスの姓を用いた)として働いたが、1640年代前半に兄のバーレント・ファブリティウス(Barent Fabritius)とともにアムステルダムのレンブラントの工房で絵を学んだ。1650年代初頭にデルフトへ移り、1652年にデルフトの画家ギルドに加入した。
その2年後の1654年10月12日、弾薬庫の40トン以上の火薬が爆発しデルフト市街の4分の1が破壊され、数千人が負傷し死者100人以上が出る大惨事が起こった。ファブリティウスの工房も爆発に巻き込まれた。ファブリティウスはがれきの下から助けられたが搬送先の病院で息を引き取り、若くして不慮の死を遂げた。この爆発で作品の大半も失われ、今日に残る彼の作品は10点余りにすぎない。
レンブラントの弟子たちの中で、レンブラントから離れた独自の様式を築くことができたのはファブリティウスだけであった。レンブラントの典型的な肖像画は一様に黒い背景の中に光のあたった対象が浮かび上がっている。これに対し、ファブリティウスの肖像画は、明るい色で目の粗い背景に、控え目に光のあたった対象が浮かび上がっている。またファブリティウスはルネサンス以来の図像学への集中から離れ、絵画の技術的側面に興味を持つようになった。彼は冷たい色による調和を、光のあふれる画面の中に鋭さを創り出すために使っている。
ファブリティウスは複雑な空間が作る効果にも関心を持った。『楽器商のいるデルフトの眺望』(''A View in Delft, with a Musical Instrument Seller's Stall'', 1652年)の誇張された遠近法にこれを見ることができる。彼は遠近法を巧みに用いただまし絵風の壁画を描いたともされるが知られている作品はない。また『ゴシキヒワ』(''The Goldfinch'', 1654年)に見るように絵具を多く載せた筆遣いの巧みさにも秀でていた。
これらの特質はファブリティウスより若いデルフトの偉大な画家たち、ピーテル・デ・ホーホヨハネス・フェルメールらの作品にも見られ、ファブリティウスが強い影響を彼らに与えたとも考えられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カレル・ファブリティウス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Carel Fabritius 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.